javaヒープサイズの上限
JDK1.5.0_xxのヒープサイズの上限は、「物理メモリの1/4または1GBのいずれか小さい方」に制限されている。
ガベージコレクションのエルゴノミクス 内の「最大ヒープサイズ」の項参照。
で、実際にどこまで設定出来るのかやってみたところ、1408MBが上限だった(Winの場合)。
C:\Documents and Settings\tanaka-y>java -Xms1408m -Xmx1408m -version
java version "1.5.0_04"
Java(TM) 2 Runtime Environment, Standard Edition (build 1.5.0_04-b05)
Java HotSpot(TM) Client VM (build 1.5.0_04-b05, mixed mode)
C:\Documents and Settings\tanaka-y>java -Xms1409m -Xmx1409m -version
Error occurred during initialization of VM
Could not reserve enough space for object heap
Could not create the Java virtual machine.
1GB以上指定出来てしまうのがマニュアルとは異なるが、上限があるのは間違いなさそう。でもこれじゃAPサーバで使う時に足りないんですけどぉ。
Linux上だと、-versionの表示のみで1500mまで指定してみたがエラーが出ない。なぜ???
会社の部下に教えたいテーマ
最近中途採用を集中的に行っていることもあり、会社の部下に教えておきたいことをまとめようとしている。それのメモ書き。
・技術は目的ではなく手段
まず最初に、技術は目的ではなく手段であることを忘れてはいけない。目的は人それぞれ何であっても良いが、会社としては「会社の利益と顧客の利益をバランス良く追求すること」であり、個人としては「社会全体の利益と自己の利益とのバランスを取ること」と言えるのではなかろうか。利益というのは必ずしも金のことではない。自己表現を達成出来たというような精神的満足かもしれない。
ちなみに、技術を探求し駆使する私の目的は社会への貢献とそれによって得られる自己満足である。「お前のプログラムは役に立ったよ」と一人でも多くの人から言われたい。もちろん生きていくための手段でもあるが、それだけではないのだ。
・正解は複数ある
そして手段は一通りでないことも忘れてはいけない。学校で教えられる正解は常に一つであるが、現実社会における正解は必ずしもそうでない。いや、正解が唯一無二であるケースは皆無と言ってもいいだろう。しかも、複数ある正解にはそれぞれ一長一短あるのだ。
重要なのは、複数ある正解の中のどの長所に重きを置くべきかを判断する力を養うことだろう。バイクの乗り方と同じで、バランス感覚が大事なのだ。
・アルゴリズムとデータ構造を覚える
基本的なアルゴリズムとデータ構造の習得はプログラミングのド基礎である。これを知らずしてプログラマーを名乗るな。また、それらを知ることによってオブジェクト指向を理解する一歩を踏み出せる。それらを知らない奴はオブジェクト指向など一生理解出来ない(かも)。
・本物のオブジェクト指向を把握する
Java言語を使ってもそれはオブジェクト指向ではない。手続き型のプログラムを書いているJavaプログラマーは掃いて捨てるほどいる。手続き型のプログラムを書きたいならJavaなぞ使わない方がよっぽど生産性が高い。Javaと付き合うならばオブジェクト指向の理解を避けて通るな。ちなみにVBは、かなり優れたオブジェクト指向言語であるが、それを知らないVB使いが多いのが現実だろう※。
オブジェクトとは何かを一言で言えるように理解すべき。
※VBは継承が使えないが、継承には副作用があるため「むやみに使うな」とさえ言われるぐらいなので、継承が無いからと言ってオブジェクト指向言語でないとは私は思っていない。
MotoGPフランス予選MotoGP結果
1位 ペドロサ HONDA
2位 中野 KAWASAKI
3位 ホプキンス SUZUKI
またまたダニちゃんすごっ! 2〜3位はBS勢だ。BSの予選タイヤはかなり良かったらしい。それを考えるとペドロサは相当すごいのか?
バレは7位とまたまた不振。改良シャーシに換えた今回優勝出来なければ、今年のチャンピオンは無いと見た。逆に言うと、今回勝てるなら今年もいっちゃう気が。
映画『ダ・ビンチ コード』に対するカトリックの反応はおかしい
「ダ・ヴィンチ・コード」の上映、アジア各地で波紋 という記事によると、映画『ダ・ビンチ コード』の内容にキリスト教の教義と異なる部分があり、この映画の上映を取りやめるよう圧力を掛けているらしい。
こういう反応は非常に嫌いだ。
私は宗教そのものを否定するつもりは毛頭無い(実際仏教には非常に興味がある)。何が許せないかというと、個人の思想信条の自由が有ってこそ成立する宗教なのに、その団体自体が自由を制限しようという動きに出ることだ。
「この映画のこれこれの部分は教義と異なるので注意しなさい」と信者に対して発言するだけで充分ではないか。映画の上映まで止める理由など何もないし、それは極めて暴力的な反応だ。
言論の自由を阻害するような動きに出ると自分たちの首を絞める結果になる事に彼らは早く気付くべきだろう。もっとも、スペイン人カトリック教団が16世紀にフィリピンで行ったような異教徒迫害の歴史を見ると、結局彼らの本質は「排他主義」にあるのかもしれない。このような実態を天国のジーザスが見ればそれこそ悲しむのではないのか? 「汝、隣人を愛せよ」は過去のことなのか。
ちょっと訂正
映画の取りやめを求めているのはマニラ市議会であって、教会は、「惑わされないように」との声明を発表しただけのようだ。この動きを見ると、宗教側の反応は正常であって政治側の動きが暴力的であるのか。