愛国心不要論(その1)

教育基本法改正に関する与党検討委員会において、愛国心の表現について自公が合意したそうだ。当初は二者で意見が食い違っていたらしい。元は、
・自民:「国を愛する心」
・公明:「国を大切にする心」
だったという事で何がどう違うのかさっぱり解らないが、「我が国と郷土を愛する」に結局落ち着いたとのこと。

今から書く事はおおかたの人からは変人として映るだろう。その事はよくわかっている。だが、これが私の率直な考えだ。


私は国際結婚をしている。つまり私の配偶者は外国人だ。私はもちろん日本人である。正確に言うと、日本国籍を持つ両親から日本で生まれ、生まれた時から日本国籍を持っている人間である。

その私は、配偶者の国と日本がサッカーの試合でもしも戦ったとしら一体どちらを応援すべきだろうか? 配偶者の両親とその試合を観戦しているとして。ほとんどの人はこう考えるのではないか、「両方応援すればいいだろ?」と。正解だと思う。
では、配偶者の両親も実は国際結婚をしており、また別の国の出身者だったとして、今度は日本がその国と戦うとしたらどうすればいい? 実は両親の従兄弟が一緒に観戦していて彼らはまた別の国の人だったら・・・・

私としては、愛すべき配偶者とその血縁者全員の関係国全部を応援すべきだろう。「両方応援」と言ったあなたの勧めに従うならばだ。
だったら、自国を応援するなどという行動は最初から取らず、「みんながんばれ!」と声援を送ればいいのではないか?


つまり、自国のみを愛することを強要する愛国心など不要なのだ。自国を愛するなどというちっぽけな考えではなく、世界中のあらゆる国・人を応援すればいいだけではないのか? もちろん、人々の生命を危機に陥れるような明らかな犯罪者は除くが。


愛国心を語る上では「国」とは何かという議論が先にないといけない上に書きたい事がまだ山ほどあるので別の日にしよう。


※ この書き方はほとんどの人には屁理屈のように聞こえるだろうが、私の配偶者が日本国籍をもし取得したならば日本人という事に当然なる。見た目は全くそうは見えないのにだ。その場合とは異なるという意味でくどく書いた。アメリカに行くとよくわかるのだが、彼らは見た目で国籍を判断しないし、したくとも出来ない。だから初対面の時、どんな姿をしている人であろうがまずはアメリカ人として会話を始める。姿形で国籍を判断してしまう日本とは事情が異なる。